憧れの人

「おい、。貴様、”憧れの樊瑞様”に何かしたのか?」
 基地内の廊下を歩いていたところ、気配もなく背後に立たれたと思ったら、第一声がこれである。
「ちょっとレッド様!からかわないで下さいよ…!」
「憧れに対して否定はしないのだな」
 レッドがにやりと意地の悪い笑みを見せるが、は言い返せない。代わりに強引に話を戻そうと試みる。
「そ、それよりも!何かしたって、何ですか」
「えらく気落ちしていたそうだぞ?」
「え?樊瑞様が?」
「聞くところによると、貴様の名前が出た時に、なんだか様子がおかしかったとか」
「え!?私がですか?どうして、そんな」
「私が知るか」
「あぁ、えぇ、そうですよね!」
 レッドが親切ではないことは、も重々承知の上だ。頼れるのは自分の記憶のみ。
 と、ここで、先日の己の失態を思い出す。

 先日の会議のことである。
 十傑集と同席すること等、の立場上、本来ありえない。しかし、上司の緊急の欠席により、も参加を許されたのである。そこで会議の進行をしていたのが、樊瑞であったのだが。
「これに関してだが…、おぬしの部署ではどうなっている?」
 ただでさえ慣れぬ会議。目の前には憧れの樊瑞。そんな中、発言を求められるとは思っていもいなかったにとって、それは不幸であった。が、同時に良い所を見せるチャンスでもであった。せめて第一声、返事だけでもはきはきと元気良く!
 そう、勇みすぎたのがいけなかったのだろう。
「はい!お父さ…」
 のその一言で、ぴしり、と会場の空気が一瞬にして凍りついた。
「す、すみません、今、私…!樊瑞様…!」
「い、いや、構わん。発言を続けなさい」
 部下に”お父さん”と呼ばれかけ、明らかに動揺した樊瑞であったが、完全に血の気を失ってしまったを安心させようと優しく笑みを浮かべたその寛容さは、さすがである。
 そんな樊瑞に感謝しながらも、動揺を隠し切れないは、この会議での発言をしどろもどろに終えたのであった。

 にとっては、非常に苦い記憶である。
「でも、だからといって、樊瑞様が私なんかの発言を気にしているとは…」
「おや、やはり心当たりがあるのではないか」
「う…でも、そんな…」
「部下の気づかぬ所で、上司は悩むものだぞ」
 俯いて言い淀む相手に、レッドがびしりと言い放つ。綾音が顔を上げると、レッドの顔はいつになく真面目であった。
「しかし…”憧れの樊瑞様”を悩ませ続けるとは、貴様も存外サディストなのだなぁ」
「違いますよ!」
 貴方と一緒にしないで下さい、というのは口にはせず心の中で叫ぶ。
「でも、レッド様の言う通りかもしれないですね。やっぱり改めて謝ってきます。ご忠告、ありがとうございます」
「礼などいらん」
「レッド様…」
「で、貴様、結局のところ、一体何をやらかしたんだ?」
 好奇心を隠そうとしないレッドを見ながら、は思い出す。この男に親切心があった試しは、ない。


 レッドに親切心があろうがなかろうが、樊瑞への侘びは確かに必要である。そう考えたは、善は急げとすぐさま基地内にある樊瑞の部屋を訪れた。
「おや、か」
「お忙しいところ申し訳ございません。今、お時間よろしいでしょうか?」
「あぁ、構わんぞ」
「ありがとうございます!」
 樊瑞の気さくな対応に、は思わず顔が綻ぶ。しかし、綻んでいる場合ではない。今日は謝罪に来たのである。は姿勢を正すと、頭を下げた。
「あの…先日の会議では、無礼な真似を…本当にすみませんでした」
「先日の、会議?」
「えぇと、その、私が樊瑞様を…お父さん、と…」
「あぁ、あれのことか…まぁ、そう気に病むな。にしてみれば、わしが父でもおかしくはないだろう」
 樊瑞の気遣いに、の胸は熱くなる。と同時に、ちくりと胸に刺さるものがあった。
 父のようであるとか、娘のようであるとか。
 それは、恋愛対象ではない。自ら父と呼びそうになっておいて、勝手に傷つくなんて図々しいにも程がある。しかし、憧れと一緒に育ってきた恋心は自身が思っていたよりも強いものであったらしい。
 気づけばの口からは、次々と言葉が飛び出していた。
「違うんです!樊瑞様は、父だとか、そんなんじゃなくて!憧れの男の人なんです。父とか娘とかそんなのは違うんです、嫌なんです!私にとって、樊瑞様は憧れで、目標でもあって。だから、その」
「ま、待て、、もういいぞ」
 樊瑞はそんなに制止の言葉をかけるが、勢いのついた言葉は止まらない。
「聞いて下さい、樊瑞様。私、今のままじゃ樊瑞様に近づけないから、だから頑張らなきゃって。ずっとそう思っていて。辛くなった時も、樊瑞様に追いつけるよう頑張ろうって、そう思えて」
「わかった!もう十分わかった!」
 の勢いに絶えられなくなった樊瑞は、制止の意味を込めてに掌を向けた。
「あ…私、つい…」
 樊瑞を困らせてしまった。その事実をようやく理解したは、一瞬ショックで固まった後、それから勢い良く頭を下げた。顔色は既に赤から青へと変わっている。
「…困らせて、すみませんでした…!」
 一介のエージェントが十傑集にこんな口を利くなんて。己の越権行為に恐怖にすら近い感覚を覚えたは、消え入りそうな声で、失礼します、とかろうじて告げた。
 情けない。恥ずかしい。一刻でも早くこの場からいなくなりたかった。
 しかし、そんなを慌てたような樊瑞の声が引き止めた。
「いや、待て!、そういうことではなくてだな」
 恐る恐る綾音が振り返ると、樊瑞が怒っている様子はない。どうやら何かに堪えているようであった。自身の掌を口元に当てて表情を隠している。が、よく見ると耳まで赤い。
「樊瑞様?」
 予想外の反応にがあっけにとられていると、樊瑞にしては珍しくはっきりとしない言葉が返ってきた。
「あー…その…あまり言われると、困るのだ。その、何だ…」
 つまり、この反応は。
「照れる」
「え」
「あまりわしを煽てんでくれ」
「煽ててなんか!思ったことを言っただけです!」
「いや、だから、それが…困る」
「す、すみません…」
 お互い顔を真っ赤にしたまま、しばし無言の空間が訪れた。そして、ふっと、お互い顔を上げた瞬間。
「樊瑞、失礼するぞ」
 言葉そのままに、まさかのタイミングで衝撃のアルベルトの登場である。
「あ、アルベルト様…!」
「何だ。貴様もいたのか、
「は、はい。あ、あの、でも、もう用事も終わりましたので!失礼します!」
「そうか」
「樊瑞様!あの、ありがとうございました!失礼します!」
 ばたばたと慌しく部屋を出て行くの背中を見送った後、アルベルトが苦々しく口を開いた。
「………邪魔をしたようで、悪かったな」
「貴様までわしをからかってくれるなよ…」
 アルベルトにまでそう言われては、樊瑞はため息を吐くことくらいしかできない。
 しばらくの後、この件に関してレッドに散々からかわれているを目撃することになるのだが、それはまた別の話にて。

>> 戻る <<