抱きしめるのは幻想ばかり

 さわさわと草木が風に揺れる音を、ひゅん、と鋭い音が切り裂くのが聞こえた。
 の太刀の音である。
 己に向けられたものではないとはいえ、決して平穏な音ではない。左衛門が訪れるより前から一人で鍛錬をしていたらしいの横顔も、真剣同様に今は鋭かった。
 しかし、左衛門が足音を消さずに近付いていくと、こちらに気づいたらしい。目が合ったかと思うと鋭さは解かれ、代わりに柔らかな微笑みが浮かんだ。同時に、女らしさがちらりと顔を覗かせる。

 この娘は、いつからこんな風に笑うようになったのであったか。

「今日も良い太刀筋じゃな」
 動揺を隠すように左衛門が賞賛の言葉を贈ると、は照れたように笑った。こうした姿を見る限りでは、ただの年頃の娘でしかない。
 しかし、今日の左衛門はそんなものを見る為にに会いに来た訳ではない。
「見合いの件、聞いたぞ」
 途端、は微笑みをかなぐり捨て、あからさまに不機嫌そうな顔を見せた。
「片っ端から断っているらしいな」
「…相手から断りを入れてくるのです。どうやら私は殿方に受けが良くないようで」
 わざとらしく袖で涙を拭く仕草をするを見て、左衛門は呆れる。
「よく言うわ。密かに闇討ちしておるのだろう?」
「闇討ちとは人聞きの悪い。ちょっとご挨拶に行っただけですよ…しかし私自身に勝てぬようでは!お話になりませぬ」
 つんと言い放つを見て、左衛門は呆れたように笑った。
「可哀想にのう。おぬしに想いを寄せる男は少なくないというのに」
「そんなもの!どうせ、私に負けた悔しさだとか、そんなものに決まっておりますよ」
「まぁ、一部の者に関してはそれも否定できぬか」
「大体、嫁に嫁にと皆煩くて…左衛門殿、まさか貴方まで私に嫁ぐ事を勧めに来た訳ではないでしょうね?」
「すまぬ、。そのまさかじゃ」
 瞬間、の目に炎が宿る。殺気にも似たものを感じた左衛門は、制するように掌を見せた。
「おっと、刃は向けてくれるなよ。弾正様直々の頼まれ事じゃ」
 弾正様。免罪符の如きその名を出すと、の気がふっと抜けた。
「弾正様が…?」
「俺の言うことなら聞くと思っておるようでな」
「…私がいつも左衛門殿の話を聞くと思ったら大間違いです」
「で、あろうな」
 静かながらも語気の荒いを見て、左衛門は苦笑する。予想はしていたが、こうなったを御するのは左衛門であろうと難しい。
 さて、どうしたものか。
 左衛門が思案するように自身の顎に手をやった所で、俯いたが口を開いた。
「左衛門殿は…」
「む?」
「そもそも、左衛門殿はどう思っているのです」
「何をじゃ」
「私に早く嫁に行けと?」
 焦れたようにが左衛門を勢い良く睨み上げた。その瞳を見て、おや、と左衛門は思う。どこか必死で、懇願の色すら混じるその瞳は、明らかに女のものであった。
 これは、まずい。
「…俺はな、弾正様に頼まれたのじゃ」
「弾正様に頼まれていなければ?」
 は左衛門を決して逃がそうとはしない。大きな瞳が、左衛門の薄い瞳を食い入るように見つめている。
 恐ろしい娘よ。
 左衛門は心がぐっと揺らぐのを感じたが、目を閉じて静かにその想いを沈める。
「…俺は、おぬしが嫁に行って幸せになってくれるならば、それで良い」
 嘘ではない。左衛門がの幸せを願っていることは、紛れもない事実だ。しかし、半ば自身にも言い聞かせるような口調になってしまったことも否定はできない。

 がそれをどう思ったか。今はただ、左衛門にはそれが恐ろしい。

 しばしの無言の後、左衛門がゆっくりと目を開けると、は既に左衛門を見てはいなかった。
 俯いている為、左衛門からの表情は伺えない。視線を下げると、刀を操るにしては細く小さな娘の手が、自身の着物をぎゅっと握り締めていた。泣くのを我慢している時のの癖だ。左衛門はそれをよく知っている。

 ほんの一瞬、左衛門はをひしと抱きしめる己の姿を思い浮かべた。

 しかし、それはすぐに瞼の裏に溶けて消えた。
 左衛門が己の自制心の強さを恨んだのは、恐らくこの瞬間が初めてであった。

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